ネタバレ注意 映画「聲の形」感想 その3 石田と西宮の再会編

こっそりチタン芯の通販開始されてますが、そんなことより映画の感想だ!(´_ゝ`)(待て)

感想その1から読まないと分からないと思うので、未読の方はまずそちらからどうぞ。

ネタバレ注意 映画「聲の形」感想 その1 - つくってあそぼ
ネタバレ注意 映画「聲の形」感想 その2 小6編 - つくってあそぼ


そんなわけで、小6編が片付いたのでようやく高校時代に入れます(´_ゝ`)
硝子の性格や思考パターンは大体説明終わったので、ここからはもうちょっとテンポ良く行けると思います。


さて、高校生になった石田は学校では相変わらずボッチのまま、バイトやら何やらで補聴器代170万円を工面して、
文字通り決死の覚悟で硝子に会いに行きます。

そして、全力で逃げられます。そりゃそうだ。

この時の硝子は、突然のことで完全にパニックになっています。
原作では、しばらく追いかけっこしたところで石田が思いっきり転んで硝子が近寄ってくる流れですが、
映画では階段を登った廊下のところで、硝子がいきなりしゃがみ込んでやり過ごそうとします。
(状況が分からなくて混乱した時は動くよりもじっと待って様子を見るようなクセがあるので、その延長?)
石田も急なことで一瞬通り過ぎかけますが、すぐに気づいて話しかけます。

ここでの硝子は、大嫌い&いじめっ子の石田との再会なので相当警戒してます。
気持ちはあの取っ組み合いの大喧嘩をする直前に近いでしょうか。
あの時は突然突き飛ばされているので、状況も近いと言えば近い。

内心で臨戦態勢を整えていた硝子は、石田に捨てられ諦めてしまった昔の筆談ノートを手渡され、
さらに混乱したところに、友達になろうと「手話で」話しかけられた。


これまで小6以降の石田を見ている視聴者ならこの流れも分かりますが、
もちろん硝子はそんなこと全く知りません。

何がどうなってそうなるのか。もしかしたら何か裏があるんじゃないのか。
あのわずかな時間に、脳内に様々な疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消え、といったところでしょう。

でも、そんな混乱の極みにいても、一つだけ硝子にも分かることがあります。


目の前にいる石田は「自分と話をするために、わざわざ手話まで覚えて会いに来た」


手話を自然に覚えるというのは考えにくい。
聴覚障害者と交流がなければ、覚える必要どころかそういう機会すら皆無でしょう。
そして、そんな交流があるのかと言うと、確率的にはほぼないと言っていい。
(日本の聴覚障害者は人口の約0.3%で、硝子と出会った時点ですでにレアケース。昔の事件を考慮すれば、たとえ交流があっても普通覚えないでしょう)

さらに、自由自在に使えるほどではないけれど、簡単な会話ができる程度には手話を身につけている。
(昔硝子が使った私・あなた・友達の単語だけを覚えていたなら、忘れ物という単語は思い出せない)


そこで、硝子は考えます。


言っていることが本当かどうかは分からない。また何かするつもりかもしれない。
昔のことを考えれば、正直気分の良い相手でもない。

でも、自分に嫌がらせをするためだけに、この筆談ノートを何年もの間取っておくだろうか。
それに、ノートを渡すだけなら手話を覚える必要もない。
嫌がらせのために覚えるにしても、あまりに労力が見合わなさ過ぎる。
それこそ、この瞬間に暴力を振るうだけで事は済んでしまう。

…今の言葉を完全に信じることはできないけれど。
…今すぐに友達だ、なんて到底思えないけれど。
…過去を許すことも、忘れることもできないけれど。

…話をしてみよう。分からないことだらけだから、まず話をしてみよう。

私に、友達になろうと伝えるため。
それだけのために手話を覚えるほどに、
「話がしたい」と言ってくれているのだから。


本当のところは想像の域を出ません。
あの時「諦めた」筆談ノートを持ってきたことと合わせて、
もう一度だけ「仲良くなりたい」と思うことにしたのかも知れません。

何にしても、こうして微妙なすれ違いにお互いが気づかないまま、二人の関係が再び始まりました。

…これ、相手が硝子じゃなかったら間違いなくここで話が終わってるよね(´_ゝ`)(本音)

実際のところ、高校時代以降は「このキャラクターだから起きた出来事」が大半で、
聴覚障害やらいじめの話は、その出来事を決定的にするための増幅装置くらいの役割になっています。
結局のところ、障害もその人を表す一側面に過ぎないので、それだけが何かの原因になることなんてそうそうないです。

とはいえ、当の本人や、周りの人たちがそう考えるかは別問題。それもまたこの作品のテーマと繋がります。


続いて、永束との出会い・ポテトをタバコに見立てて友達論を語るシーン・弓弦に追い返されるシーンを飛ばして、
橋の上での二人の会話シーンから。

正直細かい会話の内容は忘れてしまったので、原作の会話にそって話していきます。省略されてても内容はほぼ同じだったはず。

ここで石田は「会いにに行こうと思っていたけれど、昔のことを思い出すから本当に会っていいのかわからなかった。友達と言えるかどうかも分からなくなって1人で落ち込んでいた」と言い、
それに対して硝子も「同じことを考えていた」と返します。

ですが、この時の二人の脳内にあったことは、大きな違いがあります。

石田は話した通り「昔あれだけいじめておいて、急に友達なんて言っていいのか。そんな資格ないだろう」ですが、
硝子の考えていたことは、
「(いじめられたことはひとまず置いて)私のせいで石田とみんなとの関係を壊してしまったのに、向こうから言ってきたとはいえ、私が友達と呼んでいいのだろうか。いつかまたあの時のようにひどいことを起こしてしまうのではないか」
のような内容です。

普通に考えれば、硝子が「昔のいじめの主犯」に対してそんなことまで気にすることはないでしょう。
本当にそんな風に考えるとしたら、一種の狂人と言っても良いと思います。

ですが、硝子は先日、友達になってみようと決めたのです。話をしてみようと決めたのです。
それはすなわち、「いじめの主犯」という色眼鏡を外そう、と決めたことでもあります。
暫定的ながら、硝子の中では「石田=友達」と定義し直されたのです。昔のことに由来する好悪はともかく。

しかし、自分の中では石田=友達と決めたとしても、硝子自身が石田の友達として関係して良いかどうかはまた別の話です。
石田が永束を友達と呼んで良いかどうか悩んでいるのと同じですね。
永束がいくらビックフレンドと呼んでも、石田は「友達同士」の関係に自信が持てないのです。
(永束の出会いが間に挟まったのはおそらくこのため)

そしてさらに、硝子はこれまで自分が関わってきた人たちをことごとく不幸にしてきた、という自虐意識があります。

石田とは、一度だけ友達として関係をやり直すと決めた。
でも、私は今まで友達にひどいことばかりしてきた。
まして、石田にはあれだけのひどいことをしてしまった。(石田からのいじめが直接の原因とはいえ、それも元を辿れば硝子のせいという考え)
今度もまた、同じようなひどいことをしてしまうのではないか。
そんな自分が、本当にこのまま石田と関わっていいのだろうか。会う資格がないのは私の方じゃないのか。

2度目の再会までの間、こんなことをずっと考え込んでいたのではないかと思います。

そんな悶々とした気持ちのなか、石田の打ち明け話を聞いて、

あぁ、石田も自分と同じようなことを考えていたんだ。
(昔のように危害を加えるつもりがないなら)そこまで心配しなくても良かったのに。

と、「嬉しく」思ったのでしょう。
石田の言葉を信じられるようになって、少し安心したのでしょう。

当然ながら、この時の石田は硝子のように「関係を続けたら硝子をまた不幸にするんじゃないか」なんて全く考えていません。
(またいじめるという選択肢は石田にはないので、石田視点からはそもそも起こりようがない)

このように、強い自責の念があるのは二人とも同じですが、中身はかなりの違いがあります。
ですが、その気持ちのすれ違いにはお互いに気づくことなく「お互いに同じことを考えていた」と少し安心します。

直後の弓弦の呟きの通り、硝子は本当にバカですね。大馬鹿です。


なお、今後もこのようなディスコミュニケーション(相互不理解)の場面はところどころで見られます。
というより、キャラクターがぶつかるところには必ずディスコミュニケーションがあります。
ぶつかった二人の間に、どのようなすれ違いが起きているのか。よく見返してみると色々な気付きがあると思います。


こうして、ようやく気持ちの上でも「友達」になれた二人。(石田はまだ分かってませんが)
ですが、この時点ではまだ心理的には友人Aくらいの立ち位置です。
ここから硝子がポニテになるまで、どのような心情の変化があるのか。

というわけで次回は、佐原・植野との再会。

このあたりから、原作から削ったエピソードが目立ってきます。
一度で全部は覚えられないので記憶との勝負…大きいところは覚えてますが、一部削ったところでは原作とゴッチャになるかも(´_ゝ`)

ー`)。o○(…このペースだと、その10くらいまでかかるな…)