ネタバレ注意 映画「聲の形」感想 その1

夏コミからはや一ヶ月が経ちましたね。
スペースまで来てくださった皆さん、ありがとうございました(´_ゝ`)

宣言していたチタン芯の通販ですが、この3連休のうちに追加する予定です。もう少しだけお待ち下さい。


…というのは置いといて、今回の本題へ(´_ゝ`)

本日公開となった、映画「聲の形」を早速視聴してきました。
映画『聲の形』公式サイト

今年に入ってから見たい映画が何作か続きましたが、個人的に見なければいけない作品の堂々トップが今回の聲の形でした。
理由はすぐ後に書きますが、読み切り掲載時から、心臓に抜けない釘を打ち込まれている作品なのです。
映画化に関しても、期待80%不安70%くらいの非常に複雑な気持ちで待ち続けてました。
散々悩んだ結果、結局は見るしかないと思ったので、見るなら初日の初上映回で、というアレ(´_ゝ`)


そんなわけで感想に入ります。
感想の中心は、ヒロインである西宮硝子に関するものになります。

ここからは内容に関するネタバレを含みますので、
映画・原作どちらも見ていない方はここで一旦お戻り下さい(´_ゝ`)
原作は数年前に完結してるし、映画版も本線はほぼ同じなので原作ネタバレは容赦なくいきます。
かなり長くなりますので、いくつかに分けて書きます。





では、感想に入る前の前置きとして、少しだけ自分の話を。

隠しているわけではありませんが、実は生まれつきの難聴持ちでして、
左耳が完全に聞こえず、右耳も健常者の下限ギリギリ程度に聞こえが悪い状態です。
今は健常者の範囲ですが、少しでも聞こえが悪くなれば障害者手帳を3級でもらえるラインですね(´_ゝ`)

「片耳が完全に聞こえない」というのは少し想像しづらいかも知れませんが、
ヘッドホンで聞こえない側の音だけを爆音で流したとして、
爆音を流している側で聞き取るよりも先に、骨伝導や漏れる音によって無音側の耳に先に聞こえてしまう、という感じでしょうか。
(聴力検査では120デシベルを超えた辺りで聞こえる側の耳に音や振動が届いてしまうので実質計測不能

そんなわけで、聾者のヒロインである西宮硝子に近い環境にあるので、映画の感想もヒロイン視点に近いものが多くなります。ご了承下さい。
ちなみに、硝子は自分とは逆に左耳の方が多少聞こえが良いみたいですね。補聴器が両方→左のみになっているので。


前置きはこのくらいにして、感想に入りましょう(´_ゝ`)

まずは話の始まりとなる小6時代。この時に、聾によるコミュニケーション不全の原因のほとんどが表面化しています。
大体のところは話を見た人なら分かると思うので省略しますが、硝子の「あの声」に関してだけ説明しておきます。

原作では、小6時代の硝子は、どうしても必要な時(国語の授業の音読)以外はほぼ喋っていません。
どうして喋らないのか、は少し想像すれば分かるでしょう。将也がしたようにからかいのネタにされるか、気味悪がられるかのどちらかになるからです。

では、そこから一歩進んで「どうしてあんな声しか出せない」のか。
その答えは終盤で少し出てきますが、「あれが硝子が感じている『声』」だからです。

ろう者の話し方というと、テンプレート的にあのような発音も音程もグチャグチャの話し方になりますが、
あれはただ「他人の声を真似して、自分に聞こえたように声を出している」だけで、話している側はしごく真面目です。
というのも、聞こえが悪いと子音の区別がつかない、音が歪んで聞こえるため音程やアクセントも分からない、などがあるためです。
そしてその弊害は、他人の声でも自分の声でも同様に起こります。

つまり、「歪んで聞こえる他人の声」を聞いて、それを真似して「同じように歪んで聞こえる自分の声」で再現しようとした結果、ああなってしまうのです。
ダミ声フィルターを2回かけているようなものですね(´_ゝ`)
さらに言うと、正しい音をろう者に正確に伝える手段がない、ろう者も自分の声が他人にどう聞こえているか正確に聞き取ることができない、
ろう者は普段から声を出さないことが多いので声帯の使い方がよく分からない(良い声の出し方が分からない)、などの要素もあります。

あと、空気伝導(他人の声)と骨伝導(自分の声)では聞こえ方も変わりますからね。
その辺は、自分の声を録音して聞いてみると分かると思います。音声配信なんかも同様(´_ゝ`)(自分の声が超低くてビビる勢)

この「健常者とろう者の声の聞こえ方・出し方が違うけれど、お互いにそれを正確に相手に伝えることができない」点は、
他者とのコミュニケーションにおいて様々な障壁を生み出します。
健常者側からすれば「あいつの声は変だ」で終わる話なのですが、
ろう者側からすると「よく分からないけれど、自分の声はみんなが話している声と違うらしい(でもどう直せばいいか分からない)」となります。

伝えたいことがあるのに、どうしたら相手にちゃんと伝わるのか分からない。伝えることができるかどうかも分からない。
ただ耳が聞こえないというだけなのですが、ことコミュニケーションに関しては多重の障壁が生まれる、という点はこの作品を語る上で重要な要素だと思います。
そしてもちろん、「伝えたいことがあるのに相手に伝えることができない」のは、健常者もろう者も関係なく人類共通の悩みという点も重要です。
特別なことではないけれど、解決するまでの障壁が少しだけ多い。
言ってしまえはただそれだけのことで、シンプルな問題だからこそ解決が難しい。


そろそろ話を戻して作中の幼少時代に。

上で話したようなことは、ろう者と関わりのなかった子供たちには当然分かるはずもありません。
それどころか、耳が聞こえないという感覚を想像することも難しいでしょう。

硝子は「自分が困っている」ことを周囲に伝えることはできます。
周囲の子供たちも、「硝子が困っていることを手助けする」ことはできます。

ですが、その日常のささいなコミュニケーションだけでも、お互いに相当な負担がかかります。
そして、周囲に多大な負担をかけてしまっていることは、硝子も十分理解しています。

なにせ、生まれてこのかた、そういう負担をかけなかった時はただの一度としてなかったから。
そういう負担をかけない方法は、他者とのコミュニケーションそのものを完全に捨てる以外にないから。
ほぼ健常者と同様の生活ができる自分でも、その辺のところは物心ついた時には変えようのない事実として理解していました。

「この耳さえ聞こえれば」「でも聞こえるようになることはあり得ない」
誰かに話しかけられるたび、その声が聞き取れないたび、否応なく現実を見せつけられていれば、
そんなどうしようもなさも受け入れる以外になくなります。

硝子がごめんなさいが口癖になり、愛想笑いを覚えるのもある種の必然です。
周囲にかけている負担に対して、それ以外にできることがないから。
周囲の負担をこれ以上減らすことはできない。耳が聞こえるようになんてならないから。

だからせめて、自分が壊しかけたその場の空気だけでも直したい。直せなくても壊れかけのまま維持だけでもできれば…
そして、自分にできるところでは、他の人以上にやらないといけない。でなければ自分がここにいる価値なんてない。
(母親からもそういう教育をされていますね。あれも悪い教育というわけではないですが…)

そんなどうしようもない必然に迫られれば、自分の感情なんて二の次三の次です。
たとえここで感情を爆発させたところで、周囲に負担をかけ続けるという問題は何一つ解決しないのだから。
それどころか、コミュニケーションを取る取らない以前に、自分の存在そのものが認められなくなってしまうから。

話は飛びますが、植野が観覧車の中で硝子に対して
「何かキツイことがあるとすぐにゴメンナサイと言って逃げる。あなたは私と話す気がないのよ!」
と言い放つシーンがありますが、硝子からすれば無茶苦茶言うな、という話です。
思っていることをそのまま話したとして、それが周囲にいる全ての人間に認められなければ、逆に全ての人間から排斥されかねない。
そして、その筆頭となりうるのが言い放った植野だから。
この時の植野は「硝子のことをある程度理解した上で嫌いだ」と言っているわけですからね。

植野が硝子のことを理解しているからこそ、硝子は植野をそう簡単に嫌いにはなれないし、だからこそ嫌われるのも分かっている。
「言いたいことはわかってるが、お前の態度が気に入らない」「言っても気に入らないし言わなくても気に入らない」
「だからコミュニケーション取るのはやめましょう。形だけ平和にしましょう」「でも私と話す気がないお前がムカつく」
そんな矛盾だらけのことを言われてもどうしようもないし、そもそも何を話しても植野がコミュニケーションを拒絶すれば終わりです。

少なくとも小6時代の硝子には、それを覆すだけの力はなかったでしょう。
自分の存在を周囲に認めてもらうだけでも精一杯です。そして、それすら数ヶ月維持することもできなかったわけですから。

そして、「他人に迷惑をかけずに、負担をかけずに生きていくことはできない」
この前提の上で、他者とのコミュニケーションを完全に捨てるとはどういうことか。

そうして、18年間積もり積もったその重圧が、終盤の花火の時の自殺シーンに繋がるわけです。


原作未読では分かりづらいとは思いますが、硝子の自殺願望は物心ついた頃からずっと心の中にあったでしょう。
言語を介するコミュニケーションのほぼ全てが、硝子にとってのストレスであり、自殺への道を舗装し続けている原因となるのですから。
何より、人道的・心理的な問題を除けば「硝子がいなくなれば実際に解決してしまう」問題なのです。
むしろ、あそこまで踏みとどまっていたことを賞賛しても良いことだと思っています。
もっとも、踏みとどまっていたが故に、あのタイミングで起きてしまったわけですが。


思っていたより長くなってしまったので、感想その2へ続きます。
その2は「それでも硝子が他者とのコミュニケーションを続けようとした理由」から。

なんかもう感想じゃないなこれ(´_ゝ`)(知ってた)